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【アラベスク】  第17章 来し方の楔



第3節 星に願いを [2]




 店員はしばらくの思案の末、魁流を店内へ連れて入った。店の前で声をあげて泣かれては迷惑だ。奥で泣き止むのを待ち、冷たい麦茶を出して落ち着くのを待った。一通り話を聞き、大きくため息をついてから言った。
「しばらく、ここで働いてみるか?」
 魁流はキョトンと顔をあげた。店員はガシガシと顎を掻く。
「見たところ、金の持ち合わせは無いようだ。だがきっとお前、あの子犬を手に入れるまでは諦めねぇんだろ? 宗教にのめり込む輩はしぶとそうだからな。だがこっちも商売だ、ホイホイと譲るワケにはいかねぇ」
 湯呑みを握り、一気に飲み干す。
「だったら働いて、あの子犬を育ててみるか?」
「働いて?」
「実はこっちにもいろいろ事情があってな。お前さんのような働き手がいてくれると、正直助かるんだよ」
「え? 僕?」
「あぁ、お前さんがこちらの頼みを聞いてくれるんなら、住み込みで引き受けてやる。どうだ?」
「ど、どうって」
 突然の話に面喰う。
「どうと言われても」
「だが、最初に言っておくが、宗教からは離れてくれよ」
「え?」
「あぁいった得体の知れねぇモンは御免だ」
「でも」
「今の話だと、お前さん、そもそも宗教自体には大した興味も無ぇんだろ?」
「え?」
「ただ、その死んだ彼女ってのに会いたいだけなんじゃないのか?」
「それは」
 それはそうだ。鈴が先に行った極楽という場所へ行くのが、自分の目的。
「だったら、そんなワケのわかんねぇところで祈ってるより、こっちで働いた方がよっぽど彼女は喜ぶと思うぜ」
「そ、そうで、しょうか?」
「彼女はよ、動物が好きだったんだろう? 獣医になりたかったんだろう?」
「あ」
「だったらさ、ここはうってつけの場所なんじゃねぇのか?」
 言って背後の店内を指差す。
「動物たちに囲まれてさ、楽しいぜ」
 店内で動きまわる犬や猫やその他の生き物たちを見ているうちに、魁流は心が落ち着いていくのを感じた。





 店長に悪気は無かったと思う。だから、こんな展開になってしまった原因が店長にあるとは思わない。
 だが、結果的にはこうなってしまった。
 俺とツバサは、結局は出会う運命だったのか?
 せっかく、平穏で悩む事のない、ただ目の前に広がる小さな幸せだけを享受していればよい生活を手に入れたというのに、なぜ、今、妹が俺の目の前に? よりにもよって妹が。
「少し、風も緩んできたな」
 霞流慎二の声が、涼木魁流を現実へと引き戻す。
「ここなら落ち着いて話もできる」
 埠頭。夕暮れの中、港のすべてが紅く染まる。
「だが、もうじき陽も落ちる。灯りはあるから真っ暗闇にはならないが、寒さは堪える。だから」
 そう言って足を止め、少し後ろを歩いて付いたきた魁流を振り返る。
「話なら手短に願いたい」
「それはお前次第だ」
 魁流はコートの襟元を抑えた。
「なぜ、俺の居場所を妹に教えた?」
「教えたのは俺じゃない。ユンミだ」
 慎二の口元が薄っすらと笑う。その緩んだ表情には、学生時代の面影は感じられない。
 変わったな。
 だが、それを言うなら自分もではないか。
 魁流は自虐する。
 自分が、思い描いていた道とは違う人生を歩いているように、目の前の男もまた、思ったような人生とは別の道を歩いているといったところなのだろうか。それとも―――
 視線を落す。
 これが彼の言っていた、彼女の為、なのだろうか?
「あの店にはよく行くようだな」
 慎二の瞳が微かに細まる。それはまるで、沈みゆく夕日を眩しく思っての仕草のようだ。
「あの女は知っているのか?」
「あの女?」
桐井(きりい)とかいう女だ。付き合ってるんだろう?」
「あぁ」
 せせら笑う。
「別れたよ」
 風に揺れる髪を押さえる。
「お前が中退して、程なくね」
「なぜだ?」
「なぜ?」
 慎二は、小首を傾げる。
「なぜだ? 彼女の為にできる事ならなんでもすると言ったのは、お前だろう? それとも、別れる事が、彼女の為だったのか?」
「なんでもするなどとは、言ったつもりはないな」
 聞こえないように呟き、慎二は、対岸へと視線を飛ばした。タンカーが低い音で泣いた。
 押さえる指の間から、一房髪が零れた。夕日を受けて光るそれは、まるで黄金でコーティングした金糸のよう。それでなければ、金そのもの。
 いや、自分はたしかに、なんでもすると言ったような気もする。

「君と織笠さんに謝るよう説得する。僕にできる事ならなんでもする」

 結局は、できなかった。
 自分の無力を嗤う。
 俺にはできなかった。だから別れたのか?
 別れる事が彼女の為?
 まさか。
 自虐する自分に、別の自分が問いかける。
 ならば、なぜ別れた?
 慎二の顔から、笑みが消えた。
 なぜ、別れた?

「霞流さんは怖いんだ。自分の本当の気持ちを知るのが怖いんだ」

 馬鹿な小娘の声に耳の奥を叩かれ、思わず眉を寄せる。
 なぜこんな時にあんなバカ女の声が?
「俺が、馬鹿だっただけだ」
吐き捨てる。
「世の中は馬鹿だ。腐っている」
「は?」
「こちらの事より、そちらはどうなんだ?」
 相手の問いには答えず、すばやく切り返す。こんな話題に(わずら)わされたくはない。







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